「悼む人」 天童荒太 

これもネタばれです。


天童氏の文章は読みやすく、本書も400ページ超というボリュームだが、超大作という長さでもない。
それでも、読むのに時間がかかった。苦しくて何度も中断しながらページをめくる。
「悼む人」は、読む者の繊細な部分に触れてくる。私たちが普段考えないようにしているテーマについて確実に核心をつき、心を揺さぶってくる。
それを認めてもなお、いや、認めるからこそ、素直になれない自分がいた。


坂築静人は日本全国、人の死んだ場所を旅してまわっている。事故、自殺、他殺問わず、彼は死者を悼むためだけに自分の全てを捧げているのだ。彼が死者について知ろうとするのは「誰を愛したか」「誰に愛されたか」「どんなことで人に感謝されたか」の三つのこと。どんな人間であろうと静人はその三つを胸に刻み、その人が存在していたことを忘れないと誓う。
「ただそうしたいから」という理由だけで旅を続ける静人を人々は時には怪しみ、偽善者と罵り、まれに感謝し、心を通わせることもある。
いつしか彼は、「悼む人」と呼ばれるようになった……。


(おそらくは意図的に)感情を表に出さず内面が描かれない静人に、読者は容易には同調することができない。むしろ、「そんなことをして何になるのか」と悲痛な問いを叫ぶ他の登場人物にこそ、共感を覚える。
彼の「悼み」は、死者を忘れて生を謳歌する自分たちへの非難のようにも思え、苛立ちを覚え、悲しくなり、果てに恐ろしくなるのだ。
静人に、悼みの旅を「やめてほしい」と願う人物は作中にも何人か出てくる。私も、何度か静人がこの旅をやめて、普通の世界へ帰っていくハッピーエンドを願ってしまった。
それは、彼の「悼み」に反発だけでない想いを抱いているからこそなのだが、なかなか素直に認めることができなかった。(読者のこんな感情さえ、作者の意図しているものだろう)


だが結局のところ、冷酷無比な事件記者も、夫を殺したDV被害者の女も、静人の母親さえも、この世界に「悼む人」がいてくれることを望んでいる。
作者が、「この世に一番いてほしい人」と言うとおり、誰もがどこかで彼のような存在を求めているのだ。
特に、倖世と静人の母親の選択が、それを示しているように思えた。
彼女らは個人としての静人を愛していながらも、彼から「悼む人」の使命を奪おうとしなかった。むしろ、自分たちの愛、執着を手放してでも、「悼む人」が存在し続けることを願ったのだ。


彼は旅を続け、「悼む人」という象徴的な存在としてあり続ける。
また、別の人間たちが彼の役割を引き継いでいくような未来を暗示し、物語は終わる。


個人の幸せを捨て、課せられた使命を生きる、そんな人生があってもいいと思う。
しかし静人その人の救済はいつ訪れるのだろうか。このラストは必然にも思えるが、やはり切なく胸が苦しい。


個人主義が浸透し、人々が自分の幸せだけを追求するのが当り前になった今だからこそ、書かれた話なのだろう。


なんとなく、「ビルマの竪琴」のクライマックスシーンを思い出したりもした。似てるよね。