すべての物語は色あせる。だけど

誤解を恐れている場合ではない。

何かを恐れたり、遠慮したりしているうちに

時間は経ってしまう。恐ろしいほど的確に、迅速に。
そしてすべての角をとり、なめらかにしてしまう。


だからこそ、もっと早く書かなければならなかったのだけど。
私は臆病ものだから、その感情をリアルタイムで書くことができなかった。もしくは、自分自身で自分の感情をつかむことができなかったのだ。


地震が起こった当時、津波の映像を繰り返し何度も見た。
何度見ても現実のものとは思えなくて、「え?」と思いながら、それでも何度も繰り返し再生した。流れている映像の意味を理解しようとして。

津波の映像は、すべてを凌駕していた。
これまで見たり聞いたり、読んだりしたどんな芸術も霞んでしまうほど。
誤解も批判も承知で、それでも言うなら、その圧倒的な力はすべての芸術を凌駕していた。美しいとか醜いとかリアルだとか幻想的だとかそんな言葉がすべて無力化するほどの、圧倒的な力でそれは存在した。

当然ながら、私はそんなものを生れて初めて見た。
実際には、何も理解できないまま、見ることができなかったのかもしれないが……

それは「現実」であり、それだけで、すべての「物語」は無意味化した。

少なくとも、私にとってはそうだった。
こんなことが「現実」にある以上、何のための「フィクション」だろう。何もかもが、意味のないことで、色あせて見えるような気がした。

それでしばらく、私は「現実」のみ見て、聞いて、考える生活を送っていた。

実際、今必要とされているのは、この「現実」を何とかすることだからだ。身体を動かすか、経済的な援助をするかして、ぽっかり空いた暗黒の空洞を、埋めなければならない。その努力は当分続けなければならないだろう。


今はまだ、すべての物語は色あせている。
夢物語は出番がなく、ページが閉じられている。

だけどそれでも、夢と、創作が必要とされるだろう。いつかは。いや、おそらく今すぐにでも。


そんなことを言いたかった。でも文字にするのに3か月ほどかかってしまった。


時間はしんしんと、時代の上に降り積もっていく。
今更遅すぎる言葉は、こうして書き残しても時間の地層に埋もれていくだけだ。