ひとり村上春樹祭り

※あらすじをまともに紹介していないので、本を読んでない人には意味わかんなくてつまんないと思う。ネタバレもあるし。春樹好きじゃない人はスルーしてください。

「世界の終りと、ハードボイルドワンダーランド」この話が一番好きかも。というか世界観がしびれる。一番面白いかというとそうでもないけど、一番好き。好きなことと優れているということは別だ。

自分の頭の中にある、永遠の街。閉じられて完成された世界。それだけでクる人にはクる。
“世界の終り“という主人公が頭の中に無意識に作り上げた街は、ユートピアではない。それどころか、寂しくて虚しくて、閉塞感ばかりがつのる場所。何でそこには楽器もなければ本もないんだろう?それどころか人々の心までがない。”世界の終り“が、自分の心が安住するための最後の楽園だとしたら、主人公ってばいったい何を望んでいるんだ?

図書館の娘を、愛する意味とはなんだろう。自分が作り上げた世界の中の架空の異性を愛するという選択。それは自然なことなのか、世界が終るくらいあり得ない奇跡だったのか。

太ったピンクの娘は、満たされているから太っている。全身を希望で満たされているから、太っていても魅力的なのだ。主人公が彼女に惹かれながらも一線は超えないのは、ピンクの娘はそのままで十分満たされているからではないだろうか。

過食症の女の子は、飢えているから何を食べても太ることがない。貪欲にむさぼり続けても、常に飢えてお腹をすかせている。主人公が最後に過ごす相手に彼女を選んだのは、彼女が飢えているからだと思う。
というか、主人公が彼女に興味を持ったのは、彼女が働いていたのもまた“図書館”であったから。それだけのことじゃないか、という気もしている

もっとも好きな部分は、主人公が現実での最後の十数時間を過ごす間のエピソード。ここの部分だけは村上春樹じゃないと書けないなあ、と思う。雨が上がって、クリーニング屋の前を通るあたりから最後までがすばらしい。そこから、女の子とイタリアン食べるまでのくだりが大好きで、そこばかりループして読んだりする。なんだかわからないけど。

ねじまき鳥クロニクル

意味わからんけど面白い。としか言えない作品。初めて読んだとき、「これでいいの!?」と驚愕した。「あなたには“何か”がある」みたいな表現をする作家は少なくないけど、その“何か”の正体を明かさずにとにかく“何か”で押し通すのってアリなのか。村上春樹は、普通だったら許されないような抽象的で曖昧な表現を堂々としてる。そして許されてる。そのへんが、とにかく稀有な作家なんだという気がしている。
そういう意味で意外に思ったのが、「謎の女はクミコだ」とはっきり言い切ったところ。それは断定された事実で、その他の解釈の余地はない、ということだろうか。個人的には、ワタヤノボルはそんな悪いやつとも思えなかったけど、彼の中にある“悪”って何を指すのだろう?クミコの中にある“悪”は、何となくわかる気がする。

「ダンスダンスダンス」

これは意味がわかって(全部わかるわけじゃないけど)面白かった。“羊”シリーズのラストになるこの作品。まさかのハッピーエンドだし。村上春樹は淡々とのんびりしているようで、何気にハッピーエンドって少ない。後味悪いとまではいかないけど、何とも言いようのない、切なくてもどかしい気持ちになるのが珍しくない。「ノルウェイの森」とか、「国境の南、太陽の西」なんかは、はっきりと鬱になる。それを思ったら、この作品はほっとする終わり方かも。五反田君があんな風になるのは悲しかったけど。でも、彼は初登場時から破滅の予感がある人だし、主人公と仲良くなるあたり、“鼠”と似た要素があってもおかしくないもんね。
キキはなんか、前作とキャラが違う気がして、ちょっとこじつけな気がしないでもなかった。もしかして、彼女に逢ったというのは主人公の妄想ってことかもしれない。「羊をめぐる冒険」に出てきた耳の綺麗な女の子は、普通の人生に戻ってしまって、二度と主人公とは会えなくなってしまったんじゃないだろうか。この作品に出てくるキキは、全く別の存在ってことで。

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(上)新装版 (新潮文庫)

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(上)新装版 (新潮文庫)

ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)

ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)

ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)

ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)