感動の共有

っていうのは難しい。ていうか、そもそも不可能に近いことだね。

同じものを見て同じに感動しているように見えても、実はまったく違うことで心を動かされていることもあるし。

宮崎駿の「天空の城ラピュタ」にまったく感動しない、という人が知人に何人かいるんだけど、何人かいるっていうことは、それなりの理由があるんだろうな、と改めて考えてみた。

個人的に大好きな作品過ぎて、ついつい冷静に考えられなかったんだけど、今日久しぶりにラピュタのDVD見ててちょっと分かった。

天空の城ラピュタ」が好きな人は、「物語」「お話」にある程度慣れ親しんだ人だ。たぶん。頭の中に、「面白いお話」の類型みたいな、モデルみたいなものがすでにできていて、それをなぞるのが気持ちがイイ、と感じる人。

具体的にいうと、子供のころから本が好きで、あらゆる古典を読んできた人じゃないだろうか。そもそも宮崎氏がそんな人だし。

名作と呼ばれる本をこれまで読んできて、その記憶が蓄積されているからこそ、王道と呼ばれるストーリーがすぐに頭の中に浮かぶ。そしてそれが再現されることを喜ぶ。そういうことじゃないかなと思った。

逆に、そういった蓄積がない人にとっては、「物語」的な映画は単に現実離れしているだけで、親しみもリアリティも感じられないのかもしれない。

ラピュタ」や「ナウシカ」はダメだけど「耳をすませば」や「魔女の宅急便」は好き、という感想を持つ人がいるのはそういうことなんじゃないかな。

身近にある生活の延長にある世界なら、ちゃんと共感できるし感動できる、んだよね。きっと。

”いつかどこかで読んだ本”のような世界観を求めるのって、当たり前の感覚のように思ってきたけど、そうじゃないんだなーと、今更になって気づいたりしました。


もちろん、どっちが偉いとかじゃないし、どっちが意味わからんとかの話でもないよ。