「自分が与えられることは何か」を考える。

最近、山田ズーニーさんの「おとなの小論文教室」が好きだ。
とても勉強になって、以前からいろいろ共感していたけど、この間久々に読んでガーンとした。

「くれ文」から「与え文」へ
http://www.1101.com/essay/2010-01-20.html


どうして文章を愛しているのに、同時に書くことがこんなにも苦痛になってしまうのか。
それはもう何年も自分に問い続けてきたことだ。
特に、こんな風に自分自身について考えをまとめようとすると、ほんの数行でものすごく疲れてしまう。
多くの人が楽しくブログを書いているのがうらやましい。私も絶え間なく思いを書き綴り、頭の中にあるアイデアを形にしていきたい。
それなのに、一時は情熱にまかせて書き始めても、また手が止まってしまう。
本能のように書くことに固執し、また本能のようにそれを拒否する。
それが私だ。


気づいてみると私たちは、どこか
ものほしそうな「くれ文」を書いている。

「わかってくれ」、「認めてくれ」、
「許してくれ」、「教えてくれ」、
「救ってくれ」、「愛をくれ」、

くれ、くれ、くれのオンパレード。

しかし、「くれ文」が読み手の心を打つことはない。

(おとなの小論文教室より”「くれ文」から「与え文」へ” 引用)


どうしてそんなことになるのかが、ズーニーさんの文章で分かったような気がする。書こうとするとき、それは”認めてくれ””愛してくれ””許してくれ”という無意識の欲求が生まれている。私は自分自身の文章が「くれ文」だと察知し、これまた無意識で嫌悪し、拒否し続けていたのではないか。

アクセルを全開にしながら力いっぱいブレーキを踏む感じ。
どうしようもない疲労感は、そういった無意識の葛藤からきていたのかもしれない。

今、こうして書いているこの文章もまた、「くれくれ」という欲求が根底に渦巻いているのを感じる。

これは、あくまで自分自身がそれを嫌悪して許せないということ。
傲慢ではあると思うけれど、他の誰かが「そんなことがないですよ」と言ってくれたとしてもダメなのだ。

それでも、もう一度これまで書いたものを見つめ直すと、人に「与える」ことができた文章もある。あると思う。

”自分とうまくやる方法”カテゴリの文章に、私なりの「与え文」のヒントがあるような気がする。

だから、もう一度書き始めてみようと思った。

誰かに「与える」ことは、自分にも何かを「与える」ことができるということだ。

おとなの小論文教室。 (河出文庫)

おとなの小論文教室。 (河出文庫)