羽根

その日、月の無い夜、わたしは四辻の古びた街灯の下に立ちぼんやりとただ待っていた。


淡い乳白色の光は、点滅しながら足元にわたしの影を作る。遠くで、救急車のサイレンが壊れた旋律を繰り返していた。道を僅か何本か隔てたすぐ向こうに、休日前夜の騒がしい街の喧騒がある。
いつも通りの週末なら、大通りから行列になるくらいの人がこの路地に流れてきて、わたし達の家にやってくる。
だが、どうしたことか、今夜に限って夜が更けてもこの路地を通る人影はなかった。
月に一度か二度、こうした日があり理由も無く客足が途絶えてしまう。


そんな時わたしは、一番近い四辻まで出て、お客を招いてくるように言われるのだ。だが、招くと言っても通りがかる人を呼びとめたり誘ったりするわけでもない。
ただ、辻の真中に立ち闇に向かっておいでおいでと何度も手をひらひらさせているだけだ。
わたしが今住んでいる家のお母さんはそんなオマジナイでお客が来ると信じていた。このオマジナイそのものも、本来の正しいやり方ではない気がする。お母さんはいつも物事をいい加減に覚えて、その癖それをきちんと繰り返すことを好むのだ。



遊びをせんとや生まれけむ(ん)
戯(たわぶ)れせんとや生まれけむ(ん)
遊ぶ子供の声きけば
わが身さへこそゆるがるれ



「こんばんは」
数歩手前の闇から、呼びかける声がした。目を凝らしていると、白い街灯の下に背の高い男が浮かび上がるように現れた。
「こんばんは」
とわたしは挨拶を返し、にっこりと微笑む。そう、不思議な事にこのオマジナイは良く効くのだ。
「こっちです」
わたしは男の先に立って歩き出す。男もゆっくりと歩調を合わせてついてきた。
「今日は誰も来ないので、あなたが来てくれて良かったです」
「そうですか」
「ここへははじめてですか?」
「いえ」
「では前にも」
「いえ」
「おかしな人ね」


路地にある古い街灯の光は弱々しく、俯いて歩く男の顔はよく見えなかった。だが、いつもここに来る人間達とさほど違った様子は無い。と、言うよりも、わたしは人の顔を覚えられないので、いつの夜も同じ人間が繰り返し来てるのではないかと疑うことがある。
実際誰が来ても同じだ。誰とやったって、何も変わることはない。
「ここにはずっと居るんですか」
サンダルで飛び跳ねながら歩く私に、男が後ろから言った。
「そう・・かな。気付いたらここに居ました。それからずっといます」
「ここでは、何をしているんですか」
「何って、あなたのような人のお相手をしてるんじゃありませんか」
蛍光燈が地面に投げかける光の輪に向かって、私は大きく飛び跳ねる。
「さっき」
「何ですか?」
「さっき、歌っていましたね」
「ああ、あれは、昔の歌なんですって。大学のえらい先生が来たときに教えてくれました。昔の、わたしと同じような仕事をしていたひとが歌っていたんだろうって」



遊びをせんとや生まれけむ(ん)
戯(たわぶ)れせんとや生まれけむ(ん)
遊ぶ子供の声きけば
わが身さへこそゆるがるれ



「つらいことはありますか?」
「いいえ」
「悲しいことは」
「いいえ」
「昔を思い出すことはありますか?」
「……いいえ」
「どうですか、あなたはシアワセですか」
思わず息を詰めて振り向くと、男はじっと闇の中から光を浴びて立つ私を見つめてい
る。


「シアワセ?」
いつからここに居たのか思い出せない。ついひと月前のような気もするし、もう何年も過ごしているような気がする。私には何もない。ほんとうの名前さえない。ここで、教えられた通りの仕事を毎晩繰り返して暮らしている。1時間でいくらとか20分で終わらせる方法とか、そんなこと以外は、何も考えないで暮らしている。
そう、私には何もない。誰でもない。そしてそれは、毎夜会う疲れた男たちに比べればとても清々しいことのように思えた。
「多分」
私が答えると、男は微かに笑ったようだった。
「随分になりますね」
男が言った。
「いいえ、あの角を曲がればすぐ着きます。そんなに歩きません」
「そうではなく、お久しぶりですねと言ったんです」
男が、光の下に歩み出てきた。男の顔が鮮明に私の瞳の中に映し出される。
「誰?」
「君は本当に忘れてしまったの」
私が何も言えないでいると、男は私の手を取り、ポケットから取り出したものを手のひらにそっと乗せた。白い、滑らかな鳥の卵だった。
「これは」
冷たい感触と、思いがけない重みからして本物ではない。石か何かを磨いて作った精巧な偽者の卵だ。



手渡された卵は、白い蛍光燈の下で青白い炎を上げているかのように輝いていた。
「これを君に返しに来たんだ」
「私に」
「これは、もともと君のものだから」
「私の」
「君が捨てた、長い年月」
「私が」
「これさえ無ければ、私は軽くなって飛べるって、そう言っただろ」
「これ、さえ」
「全てを忘れたいと君はそう言って、これを僕にくれた。僕は、全てを覚えていたいと受け取った。……だけど僕にはもうこれが必要じゃなくなったんだ」
「もう、いらない?……」
「だから、君に返すよ。僕が抱えていた長い年月、全ての記憶を」
男はすっと、光の輪の中から離れた。私は我に返り、慌てて男の後を追う。


「いらない。わたしはもうこれはいらないの。」
路地は何もなかったかのように静まり返り、もう誰の姿も見えなかった。
走り出そうとした私の足元で何かが割れる音がした。
慌てて地面にかがみこむと、石の卵は割れて飛び散り、欠片は暗闇の中で青白く光を放っていた。
指先で一つ一つ、欠片を拾い集めていると、言い様の無い悲しい気持ちがこみ上げてきた。
割れてしまった、綺麗な卵が割れてしまった。ただの石の破片になってしまった。
おもちゃを壊された子供のように、声を上げて泣き出したくなってしまった。
今まで、悲しくならなかったのは何故だったのだろう。寂しいと思わなかったのは何故だったのだろう。みんなみんな、この殻の中に閉じ込めてしまっていたからだったのだろうか。
いいや、泣いてやれ、もう卵が割れてしまったのだから。閉じ込めておく必要も無くなったのだから。そう思うと途端におかしくなってきて、こらえきれずに私は声を上げて笑った。おかしすぎて、耐えられなかった。
その瞬間、私の中に長い長い時間がよみがえった。あとからあとから涙が溢れ出しどうしても止まらなかった。