遊べや遊べ

 ここは駅前で、今は夕暮れ時。私に分かったのは、そのことだけだった。どこの駅かはわからない。細かい雨が降っているが暑くもなく寒くもない。私はぼんやりと傘をさしたまま大階段に座っていた。階段は駅ビルに繋がっていて、目の前は広場になっている。座っているのはちょうど、階段の中ほど。人影はまばらだった。傘を握る手が冷たい。何かきっかけがあって覚醒したわけではなく、ただ目の前にある風景がふと目に入ってくるのに気づいた、という感じ。もしかしてもう何時間もここでじっと下を見下ろしていたのかもしれない。
「見つけた」


 遠くから聞こえる声の方に顔を向けると、階段の一番下に小さな人影が見えた。たくさんいる人の誰に呼びかけたか分からない。が、私は反射的に立ち上がった。人影が私に近づいてくる。その姿が近づいてきて、その人物が私に笑いかけてくる。逆光で顔はよく見えない。身を翻し、私は逃げた。


 駅構内を私は逃げる。風のように身が軽かった。大階段を駆け上り、ビルの構内に入り込む。見たことがあるようなないような商店たちを横目に、エスカレーターに乗ると、人影はついてくる。エスカレーターは吹き抜けのホールをらせん状にのぼっていく。ガラス張りになっている天蓋を通し、夕暮れの光が差し込んで来ている。雨は小降りになっていた。


 屋上への扉を開けて、私は走る。はやく、はやく、捕まらないように。雲の隙間から、光の帯が幾筋も射しているのを見ながら、風のあまさを味わう。行ける。どこまでも行ける気がする。駐車場を走り抜け、下りのエレベーターにたどりつく。エレベーターを待つ間に人影は追いついてきて、私に手を伸ばしてきた。間一髪、開いた扉に私は滑り込んだ。 追って来る人影はあと少しのところで締め出され、私を見つめたまま止まっていた。鬼ごっこの鬼は笑っている。扉が閉じるその刹那、私もその目に笑いかける。体中に力がみなぎってくる。


ほら、逃げきれた。私は追ってくる何かから逃げきれた。この世界のどこへでも、私は自由にいくことができる。何もかもから解放されて、幸福感とともに私はどこまでだって逃げていけるんだ。
エレベーターは地の果てまで私を運んで行き、私はもう追われることはない。


ふと、がくんという振動とともに、世界の何かが色あせる。扉が開き、私はその理由を知った。
「おまたせ」
私は笑ってみせるが、さっきまでの希望はすでにしぼんでしまった。
「どこに行ってたの、探したのに」
そう言って落としてきた傘をさし出す顔は、見知ったあの人。彼の眼鏡に反射して、見なれた私自身の姿も見える。
はいはい、分かっているんです。逃げられないこと。自分が誰かも、ここがどこかも、あなたが誰かも、もちろん知っておりますとも。でも、そのかわり、私が逃げられないかわりに、あなたたちも逃がさないから。


ビルを出るとやみかけた雨はまた強くなっていて、空は暗くなっていた。私は恋人と手をつなぎ、つまらぬ妄想を再び始める。もっと遊んでいたいのだけれど、つかまえられたら仕方がない。遊べや遊べ。また明日。