やきぐり・ゆでぐり・やいゆえよ

入院している伯母の見舞いに、たまに行くことがある。
私は病院が苦手だ。自分で行くのも嫌いだが、誰かの見舞いに行くのはもっと苦手だ。
今の病院はキレイで穏やかな空間に作ってあるけど、それでも他人の痛みと心細さがうずまいていて、いたたまれなくなる。

病気やケガはつらい。治療の期間は孤独なたたかいだ。誰も代わってはくれないし、誰も代わってあげることはできない苦しい時間を過ごさなければ治らない。

伯母は母より随分年上の姉で、もう老人と言ってもよい年齢で、女学校を出た秀才で、たいそうドライな人である。
窓に花はかざらないし、生活に不要な置物はおかないし、面白くもないのでテレビも雑誌も見ない。
見舞客の持ってくる品物も、必要なければ容赦なく却下して持って帰らせる。母が伯母のために選んだおみやげも、封も切らないうちにあっさり他の親戚に回されてしまった。

母は割とウエットな人なので、そのことに呆れたり傷付いたりしていたが、私は伯母のそういうところが結構好きだったりする。

ドライな人の見舞いは、ずいぶん気がラクである。
慰めも、励ましも、こちらの曇った顔も、伯母はすべて興味なさげにドライに受け流す。
人に会うのに面倒がったりもしないし、無理に元気そうに振る舞ったりもしない。

何か欲しいものはあるか、と聞くと何もないと言う。
それでも何か喜んで欲しいので、コンビニで剥き栗を買う。
食べきりサイズの150円くらいの小さい袋だ。
過去あらゆるものを見舞いに持って行ったが、全面的に受け入れられたのはただひとつこの品物だけだ。
栗が好きだからと言って、天津甘栗の大きな袋など持って行った日には、食べきれないから要らないと、あっという間に却下されてしまう。

病室にあるのは備え付けの家具と、ベッドだけ。枕元に伯母の孫が作った折り紙の花と手紙が飾られている。孫からのプレゼントはさすがに例外。うれしいらしい。
飲みたければ買ってこい、と言われたペットボトルのお茶を飲みながら、剥き栗を二人で食べる。小さな袋には全部で7粒くらいしか入っていない。それでもう充分。彼女が他に欲しがるものはない。
会いに来てくれるだけで充分。口先だけではなく、たぶん本当にそうなのだ。
要らないモノはホントに要らない。邪魔なだけだ。

日当たりの良い病室で過ごしていると、いったい、人間が本当に必要なものなんて実はほとんど無いのかもしれない、という気にさせられる。
シュークリームもケーキもメロンも、綺麗な花束も、可愛いパジャマも週刊誌も、必要ない。

ただ食べきれる数のむきぐりだけ手のひらにあれば。