言葉なんて信じない

もちろん、言葉の威力を信じているからこそ言い放つわけですが。


言葉は大事だ、というのは当たり前の大前提なわけですが、それって道具が大事くらいな意味しかなくて、本当に大事なのは言葉そのものなんかじゃないと思うわけです。


よく言われる「言葉を大事にしよう」というのが、そういう意味じゃないことくらい、分かっているつもりですが。

それでも、言葉そのものは万能ではないとあらためて言いたい。

「言葉を大事にしたい」「言葉にこだわりがある」「言葉で伝えたい」みたいなセリフを目にするたびにモヤモヤする。
言葉言葉って、どんだけ自分は有効に言葉を使ってるつもりか、と。

「言葉の使い方が面白い」というこはあるかもしれない。
でも、中身があってこその言葉でしょう。言葉はただの表面。何かを表現してこその言葉であって、言葉そのものに何か力があるわけじゃない。

たとえば、「好き」とか「愛してる」って言葉は大事か?
答えはNOでしょ。はっきりとNOだ。
「愛してる」が意味するものは、その人の経験と、想いと、時間と感情が積み重なってあるもののはず。大事なのはその想いの集大成の方でしょう。

言葉は、それを表現するひとつの方法でしかないのです。


言葉の存在意義を示すとしたら、「好き」「愛してる」という気持ちを、いかにそれ以外の言葉で伝えるかどうかにあるはず。
舞台の上で役者は、「嫌い」というセリフを使って相手を愛してるということを表現します。表情や、声色やその他全ての要素を使って。

その点、「好き」「愛してる」を軽々しく言わない人というのは誠実な気がします。言おうと思えばすぐ言えるお手軽な言葉は、本来使い方がひどく難しいわけですから。外国人はいいんです。彼らは全身を使って「愛してる」を表現してるから。


言葉で全部なんとかなると思うのは怠慢だと思います。
本当に言葉が大事だと言うのなら、言葉以外のものをもっと充実させろと言いたい。あふれるばかりの中身を持っていれば、それは容易に言葉という殻をやぶり、外に流れだすはずです。

何か伝えたいことがある者は、言葉の充実を待たず、稚拙な言葉でもって外に出すべきだと思います。何も恐れずに。


……書けば書くほど、当り前のことを何言ってるんだみたいな感じで、単に自分に言い聞かせたいだけみたいな文章になってしまいましたが、それもこれも、自分がここ何年もできなかったことにいい加減イライラきているからにほかなりません。

何より私自身が、中身も言葉も充実してないと自覚しているからかな。

ライターの学校に行っても、ライターの仕事をしてみても、自分を変えることができなかったです。型ばかり気にして、結局つまらないものしか書けないのは私だ。
言葉にとらわれたくない、かといって、奇をてらっただけの言葉遊びには我慢ならない。
安易なテンプレートの言葉を何の知恵もなく使うことは、もっともっと我慢ならない。


そんな感じです。