君は自分を好きか

ここ数日考え続けてること。
結局、「自分のすべてを肯定する」ということが正しいか間違ってるか、は重要ではない。

問題は、「自分のすべてを肯定」できないから、という理由で自分を否定してしまうところにある。
ややこしいなあ。


その昔、吉本ばななの「アムリタ」を読んだ時、主人公が「つらいことも悲しいことも、どんなことが起こっても、私はそれすら面白いと思うだろう」みたいなことを思うくだりがあって、それにものすごく感動したことを思い出した。
うろ覚えなんで、まったく自信がないが、たぶん同じような意味の文章があったと思う。


何にせよ、「起こること、起こる感情の全てをよいと判断する」(もしくは悪いと判断しない)という考え方を、私はこの作品で初めて知ったように思う。


そう悲しい、苦しい、つらい、という感情そのものは何ら悪ではない。
悲しんでも、苦しんでも、全面的にそれを受け入れることができれば人生は豊かになる。
ものごとをややこしくするのは、「否定」だ。
私の中にあるこの「否定」がどういう心の動きなのかはわからないが、確かにいつもそこにある気がする。
こいつは非常にやっかいで、せっかくの感情の高まりを邪魔するし、想像力を停止させるし、何よりごはんをまずくさせる。


「否定」は巨大な漬物石みたいな巨大遺跡。頭の中に居座ってる気配がする。
奈良の石舞台な大きさで、絶対動かせないくらい重いわけ。

そして何かが起こるたびに、乗っかってきて押しつぶしてくる。
「こんなことして馬鹿だと思わないの?」と言ってくる。


「否定」は否定しても消えない。
なので、肯定するしかない。自分の中の否定を肯定する。


自分を嫌いな私を肯定する。


色々めぐりめぐってきたけど、そうするしかないな、というところに行きついた。
自分を変える努力もさんざんしたけど、それって素手で謎の巨大遺跡を動かそうと必死になってる日々みたいなもんで。
一日やっと3mm動いて、百年たったら動かせるかもしれないけど、気付いたら苦労で顔も歪んで、季節も知らないうちにどんどんすぎていって。
それってどうなんでしょう。
呪いを解こうと必死になりすぎたら、それがすでに呪いではないか。


巨大遺跡のそばでお弁当食べたり、鳥と遊んでたりしてても別にいいんじゃないか。
石は相変わらず呪いの言葉を吐いてくるけど、慣れればただ石がしゃべってるだけだし。うるさいだけで、怖いわけでもない。
そういう風に思えたら今度こそ世界が変わる気がする。


悪魔ばらいをあきらめて、霊とともに楽しくやっていきますみたいな。


うーん、自分ではかつてない斬新な境地にいたったつもりになったけど、思えばこれ、普通にみんなやってることかもしれない。