人が品格を失うのはどこらへんか、もしくはどこらへんまで持ちこたえるべきなのか

先月、海外留学の仲介業者が破産申請したニュースで、債権者説明会の様子が流れていた。見た人も多いと思う。えらいことになっていた。留学費用が来ないと知った債権者たちの怒りは相当なもんで、経営者袋叩き状態。土下座してる頭上に飛び交う罵声。
確か、教習所の閉鎖騒動も同じ時期に起こり、同じようなことになっていた。


私自身すぐカッとするタイプで、貧乏人でもあるので大金を失った人たちの気持ちはわかる。
苦労して貯めたお金ならなおさらのこと。ただじゃおかないという雰囲気にもなるのも自然だろうと思った。その場の熱気に押されて興奮してるのもあるだろうし。


しかし、一緒にテレビを見ていた友人T氏は「この人たち、いくらなんでも自分を見失いすぎ」という感想を持ったようで、しばし口論になった。
「いや、この状況なら人間はこうなるの普通じゃない?」「すべての人がそうじゃないだろ」
みたいなやりとり。その時は自分がもし大金損したら、て考えるともう居てもたってもいられないくらい心が狭くなって、一歩も譲らずだったんだけど。キーってなりますもん。漱石の「こころ」でも先生が「お金は人を変える」って言ってるし。


でも、ふと頭が冷えた頃に考えた。極限状態において自分を見失う人は多い。大多数かも。だけど、そういう時でも節度を無くさない人というのも居るのも確かじゃないか。
阪神淡路大震災では多くの人が冷静に助け合い、適切な行動をしたおかげで最悪の状況を逃れたし、911テロでは飛行機内でテロリストと戦ってビル追突を回避した乗客たちの決死の活躍が語られた。


思えばトラブルに巻き込まれた時、パニックを起こしても何も良いことはない。怒りや恐怖に身を任せれば少しは気は済むかもしれない。しかしそこから解決策はまず浮かばないだろう。
それに、ギリギリの状況だからこそ常日頃の自分の思想を試される。そこで自分を見失っては結局自己を全否定することになるではないか。


たとえ可能性が低くても、ベストな方法を見つけ出すことに賭けるべきだろう。たとえその方法が自らを犠牲にするものだとしても。

……想像しただけでビビって気を失いそう。


最初の話に戻ると、何らかの暴動に近いようなことが起こったとして、流れによっては自分が加害者にも被害者にも容易になりうるだろう。
責められる側にいるときには、もしかして冷静になれるかもしれない。どうにかして切り抜ける方法を思いつくかもしれない。
でも、責める側であった場合はどうなのか。表向きに被害者であれば怒っても文句を言われない立場だ。むしろ怒るべき立場である。何をしてもいいような空気になるかもしれない。
その時どこまで、節度を守れるか。


どうだろう。何かあった時、私はどのへんまでこの私でいられるんだろう。
我を忘れて喚く自分が容易に想像できるだけに、この問いは恐ろしい。