深山・幻想

 死んだ父を特別懐かしいと思っていたわけでもない。


が、条件がそろう時はそろうものだ。これがめぐりあわせというものかな、と、山道をのぼっていく車の中でそう思う。九月の末になっても依然夏日のような陽気が続いていたが、奈良の山はすでに秋の気配に染まっている。


 西吉野には、父の墓所がある。


 道にはたくさんのヒガンバナ。カーブを曲がるたび、赤い花の残像が目の奥に焼きついた。


 母が家族で墓参りに行こうと言い出したのは行出発前夜で、不思議なことに普段バラバラに忙しく暮らしている皆の休日がたまたま一致した。何週間も前から予定しても都合がつかなかったものが、ほんの思いつきのタイミングでぴったり合ってしまう。


 つまりは、今日はそういうめぐりあわせの日ということだ。


 長い間人の訪れなかった墓地は荒れ果て、すっかり山の景色と同化していた。一応墓地として区切られてはあるものの、自然の丘をそのまま利用したようなところで、石畳どころかきちんとした道もない。
お寺で借りてきた鎌やクワで雑草やツタを引き抜き、水を汲んできて墓石についた汚れを洗う。
 私たちはしばらく黙ってその作業に没頭した。


 父の墓の前に立つと、ちょうど目の前に広がっている村落が見下ろせる。
父が育った故郷の眺めだ。今はもう縁者は誰も住んでいない。
こんなところで育ったんだなぁと、手を止めてしばらくその景色に見入っていた。


電車も通らない、広い道路も通っていない。それでも人が生活している気配は都会と同じように濃い。
ひんやりとした空気の中、大小様々な家が並び、軽トラックが走り、どこかで犬の鳴き声と子供の笑い声がする。
いくらここが変わらず田舎の風景を保っているとしても、きっと父が子供の頃に比べれば何もかもが違っているはずだ。


そんなことは分かっていた。この景色ももう見慣れていた。それでも、考えてしまった。建物や住む人が変わっても、この空気はきっと同じだろう。地名が昔と変わっても、生えている草の種類や匂いは同じはず。私は今、父と同じ景色を見ているに違いない。


 すぐそばで、弟夫婦が根を張った草を手分けして引き抜いている。妹が墓石に水をかけている。母も同じように無心で働いている。弟夫婦の子供たち、小さな甥たちが枯草を蹴散らしてはしゃいでいる。


 私たちの父親は、ろくでもない人だった。


 家族を、それ以外の人をたくさん苦しめ、最後には自分自身が一番苦しんだまま死んで行った。


 だけどそれを責めるものはもういない。少なくとも、今この場所にはもういない。可哀そうだと泣くものももういない代わりに。
 時が経つというのはきっと、そういうことだ。


 掃除が終わり、線香と花を添えて皆で手を合わせた。小さなカマキリが墓石を這い上っているのを見つけ、甥たちが歓声を上げる。
枯れ枝のような小さな体を捕まえられてもがいている。家に持って帰る、ときかない小さな兄弟に「逃がしてやって」とお願いをした。
 ここで生まれたものは、ここで死ぬほうがいい。その方が安心する。そう思ったが、何の根拠もないので理由を聞かれずにほっとした。


 もう一度、目前の風景に目をやる。
 色づきはじめた紅葉と枯草の色。冷たい空気、夕方の空の色。土の匂い。目立つものは何もない平和でさみしい眺めだったが、きれいだなと思った。


 さみしい、さみしい、美しい、美しい、苦しいようなさみしい景色。


 この風景を見ていた父はきっと深い深いさみしさを抱えていたのかもしれないと思ったが、同時にありあまるような幸福も受け取っていたに違いないとも思った。


 考えているうちにそれが父のことなのか自分のことなのか分からなくなってきたのだが、もう時刻も遅く、夕闇が迫る前に私たちは山を下りた。